【ネタバレ注意】映画「鬼滅の刃」 売れてる理由を解説する
舞台は大正時代の日本。主人公の少年・竈門炭治郎は、鬼に大切な家族を惨殺され、ただ一人生き残った妹の禰豆子も鬼にされてしまう。炭治郎は妹を人間に戻すため、鬼を倒す組織「鬼殺隊」へ入隊。仲間といくつもの死闘を乗り越えていく。
この映画で最もまぶしく輝くのは、階級制をとる鬼殺隊で最高位の「柱」と呼ばれる剣士の一人、煉獄杏寿郎だ。強く、優しく、温かい。戦隊モノでいえば押しも押されもしない「レッド」。的確な采配で炭治郎たちを導き、乗客200人の汽車を乗っ取った凶悪な鬼の討伐に成功する。
突如現れる鬼側の幹部的存在・猗窩座(あかざ)によって、煉獄は命を落とす。
「柱」が3人がかりで対峙しても勝てるかどうか分からない、ほぼ無敵の鬼。煉獄は一人で立ち向かい、前の戦いで重傷を負った炭治郎たちを守り切る。
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煉獄が大好きだった。
だから、この場面も何度読み返したか分からない。
それなのに、映画でその戦闘を見守りながら、思わず「勝てる」と信じた。
当然、結末が変わるわけもなく、煉獄は死んだ。
二度、三度と鑑賞しても同じこと。
私は「勝てる」と信じ、窮地で涙ぐみながら「相討ちでもいい」と祈り、それでも必ず煉獄は死んだ。
憎い猗窩座は逃げ去った。
この社会現象と化したヒット作品を語るとき、知たり顔でそう評す人もいる。
じゃあ、なんで「レッド」が真っ先に死ぬんだよ。
物語の半分にも到達していないのに。
炭治郎たちと任務を共にするのだって、これが初めてなのに。
そうじゃない。
この戦いで、やはり煉獄は負けなければならなかった。
なぜか。
彼はきっと、「鬼の論理」と「人の論理」が異なることを明確に示してみせる大役を負わされていたからだ。
少し唐突に聞こえるかもしれないが、この資本主義社会で生きていると、必然的にそうなる。
煉獄は、なぜ死んだのか。
それは「鬼になれ」と強いられるこの社会で、私たちが「人として在り続ける方法」を示すためだ。
重要なのは、敵の鬼たちがかつては人であったことだ。
例えば、他人から才能のなさを馬鹿にされ続け、自分を見失った青年。
歩くこともままならないほど病弱に生まれたせいで、孤独を抱えた子ども……。
虐げられ、ただ人として生きていくことさえままならない世界に絶望した末に、鬼になった者は多い。
それでもこの物語では、鬼は徹底して「滅するべきもの」として位置付けられている。鬼は人間を喰らうからだ。
「自分はこんなにつらい思いをした」
「世界はこんなにひどい場所なんだ」
――そんな絶望やニヒリズムに絡めとられて、まっすぐに生きていこうとする人間をぐちゃぐちゃに破壊するからだ。
何点くらいあげてもいいと思った?
8点くらい
男の形をしていた者も、女の形をしていた者もいた。
「弱い人間が大嫌いだ。弱者を見ると虫唾が走る」
と語る場面がある。
その薄笑いをみると、私はどうしても「ヒッ、ヒッ」と引きつるような感じで笑っていたあの中年社員たちを思い出してしまう。
でも、生身の人間を「成果」を出すための存在としてしか見られなくなって、
それゆえに人を傷つけても何とも思わなくなって、
せっかく手に入れた強さを、
自分がいい思いをする以外の何に使うべきかも分からなくなっている時点で、
全員ひっくるめてすごく弱いんじゃないのかなあ、と思うのだ。
猗窩座にとっては「強くなること」自体が目的化しているからだ。
傷つきやすく、すぐに老いて死んでしまう人間の肉体をまとっていては「至高の領域」にはいけないと迫る。
つまり、「人でなしになって、一緒にマウンティングゲームしようぜ」と誘っているのである。
鬼にならなければいよいよ死ぬという状況に追い込まれても、一瞬も迷わず拒む。
その信念の原点にあるのは、幼少期、余命わずかな病床の母親から授けられた言葉だ。
「なぜ自分が人よりも強く生まれたのかわかりますか」
「弱き人を助けるためです。生まれついて人よりも多くの才に恵まれた者は、その力を世のため人のために使わねばなりません」
強き者は、弱き者を守れ――。
元「柱」の父が仮にこれを言ったなら、おそらく「鬼より強くなれ」という意味合いを帯びてしまったことだろう。
しかし、本作でその父は、鍛錬を尽くしても「大したことはなかった自分」に失望したのか、酒を飲んで自堕落な隠居生活を送っているという設定だ。
彼女は煉獄に「強くあれ」と言うが、同時に、自己保存だけを目的化する「鬼のような強さ」には意味がない、と戒めているのだ。
それを受け継いだ煉獄は、決して弱さを否定しない。
つまずいた人がいれば、そこに当たり前に手を差し伸べられる人間の可能性を諦めない。
煉獄が命をかけてその正義を全うしようとする瞬間、私たちは炭治郎と一緒に「煉獄さん、煉獄さん」とその名を呼びながら涙してしまう。
それはおそらく私たちが、常に「鬼にならないか」と誘われるような日々を生きているからだろう。
気が付いたら、「今ここで猗窩座を叩き潰して、煉獄さんの正しさを証明してもらわなければ」と思っていた。
この気持ちの奥底には「結果を出せないなら、『善くあること』などただの綺麗ごとになってしまう」という「鬼の論理」が潜んではいないか。
気づいたとき、背筋がスッと冷えた。
私たちが既に内面化してしまっている
「鬼の論理」を、
根底から否定するためだ。
鳥肌立ったわ…
煉獄は、最期にそう言い残す。
炭治郎たちは、その言葉を胸に刻み、幾多の修羅場を鬼に堕ちることなく、乗り越えていく。
――ラストシーンで泣き叫ぶ炭治郎の声は、逃げる猗窩座の耳には負け惜しみにしか聞こえていなかっただろう。
だが、煉獄が体現した「善の力」は、彼が倒れても消えない。他の「柱」や炭治郎たちに受け継がれることで時間を超え、より大きな力となっていく。
今の世界に最も必要な希望のメッセージを届けた。
私たちが「鬼のような強さ」を欲望するだけの存在に堕落しない限り、煉獄は死んでも、負けないのだ。
終わり
Source: 映画.net